ぽんこつ地獄変

ジュマンジやグリードアイランドを超えるクソゲーとの闘争

反出生主義者から見た映画『存在のない子供たち』

丁度日本では一年前位に公開された映画『存在のない子供たち』(原題کفرناحوم、英題Capernaum)は貧困にあえぐ少年がこの世に自分を生んだ親を訴えるという内容ゆえに一時期反出生主義界隈でも話題になっていました。映画の公開と前後してインドでRaphael Samuel氏が反出生主義的理念に基づき、自身を生んだ両親を訴えようとしていたためリアルと虚構がシンクロしていたのも追い風だったのかもしれません。こちらの訴訟は彼が弁護士に相談しても、「理論は腑に落ちるがやっぱりクレイジーだ」と返されてしまったようだし、そもそも訴訟自体も受理されなかったようですが。

 

反出生主義≠always出生主義・出生主義の批判

この映画がどうしてそこまで反出生主義的ではないかというと、まず、映画自体がフォーカスしているのがレバノンのスラムで子供のような弱者が如何に理不尽に虐げられてしまっているか、そこでの結婚・出産に関する価値観が破綻していることかだからです。各種メディアでの批評も貧困故に生じる問題を描く圧倒的な監督の手腕や筆致を評価する向きが多かった記憶があります。詳しくは語りなおしませんが、主人公の妹が年上の男に強引に嫁がされ挙句出産時に負担に耐え切れず亡くなってしまったり、それに反発して家出した主人公が親に捨てられた見ず知らずの赤子と当てもなくさまよい続けたりする場面では日常から大きく乖離した別の狂気じみたグロテスクな日常を眼前に叩きつけられ、かなり考えさえられます。

 

ついでに言うと、監督のナディーン・ラバキー氏にもお子さんが二人いるようなので、「子供がいる人とはもう対話もしたくない」というタイプの反出生主義者の方からすると、それだけでこの映画を見る気は無くなってしまう可能性があります。

 

じゃあ反出生主義者が溜飲を下げられるようなポイントは無いのか?と言うとそうではないのです。ネタばれになってしまいますが、映画の終盤では自分と多くのきょうだいをさんざんネグレクトし、挙句妹を実質的に死に追いやった両親がまた新しい子供を作っておきながら盲目的に「神からの授かりものだ」などと喜んでいる中、主人公は冷たく、力強く言い放つのです。「心が無いのか」と。肝心の裁判のシーンでも延々主人公の両親は自分たちは子供たちになんでもしてやった、こんな親不孝者をもってなんて不幸なんだと白々しい言い訳を繰り返していました。

 

繰り返しになりますがこの映画のコアは、上述の貧困がもたらすおぞましい日常を描くこと、その社会で親の責任が軽視されすぎ、人間ひとりひとり、とりわけ子供たちと女性たちの人権が蔑ろにされ、貧困がさらにループしてしまうというメッセージなのでしょう。換言すれば、反出生主義の「だれであっても、人生をスタートする価値・所以はない」という趣旨はそこに見当たらず、「責任をとれず、子供を愛し育めないなら生むな」という意思がそこにあるだけなのです。どちらかというと想定されている観客は発展途上国の貧困に強い興味を抱く方かと思われます。この作品を反出生主義的と呼ぶよりはそのエッセンスも多少は持っている。位の結論に落ち着くでしょう。

 

なんだかんだで見るべき作品

ごちゃごちゃ取り留めなく語りましたが、親と子の関係性を描く作品の殆どが彼らの間の絆・込み入ったところでもせいぜい小さ目な確執を描くところに終始せざるを得ない中、ここまで壮絶で破綻した親子関係、そして親となる人間が背負おうべき責任を描いてくれたナディーン・ラバキー氏の胆力は間違いなく称賛に値します。貧困に関しても、「こんな街に生まれなくて良かった」だけにとどまらない印象を与えてくれることは間違いないです。この映画は貧困ポルノなどといった矮小な枠では間違いなく括れない可能性を湛えています。